【人生の楽しみを見つけましょう】
『コンピュータが仕事を奪う』 新井紀子著 日本経済新聞社 2010.12
先日、同郷のフックン、よっちゃん、リョウマくんの3人が北方謙三の「水滸伝」にはまっているらしい、私はといえばその輪の中にどうも入れない感じ、という
記事を書いた。
国語の巨匠・フックンにいたっては、「あまりに面白くて、面白くて、夜もまともに眠れない」というのである。「読みたい、眠い、読みたい、眠い、でも続きを読まねば眠れない」と激しい葛藤の末、最後は睡魔に負け(<- 当然だ)、力尽き、気がつけば今日も寝不足で霞のかかった頭を抱えて仕事に出かけるのでありました。
私も彼らが面白いというので、水滸伝1巻をを手に取って、パラパラと数ページ読んでみたが、深く読む気にはならなかった。同郷で同じ年代、文系、理系の違いはあるものの、小説に対する態度の違いはなんなのか、考察してみた。
資料1によれば、人間の思考方法には「帰納」と「演繹」という2種類があるそうな。帰納は、「〜のようにすると、・・・となる」いうように、経験やデータに基づいて考える方法で、演繹とは、「〜だから、・・・となる」というように、根拠と論理に基づいて考える方法だということです(資料1の201頁)。別の言い方をすれば、演繹とはあらかじめ正しいということがわかっているある事実から論理的に結論を導いて判断する方法で、帰納とは過去のデータに基づく統計的な判断であって、「どうしてそのようになるのか」という理屈はないということです(資料1の61頁)。
人生論の達人・よっちゃんは、「自分が経験できることは限られている。小説の中には自分以外の人生がある。小説を読めば他人の人生も自分が経験したことになる」といっていた。とすれば、小説を読むというのは帰納的思考の一つということになる。
私が最近、小説に身が入らないのは、帰納的思考よりも演繹的生活指向であるからかもしれない。
蛇足
人生について考えるならば、小説を読むような帰納的思考より哲学書を一冊読むような演繹的思考の方が効率はよさそうだが、フックンが言うように、小説にはなんといっても楽しみがあるからなあ。
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資料1: 『コンピュータが仕事を奪う』 新井紀子著 日本経済新聞社 2010.12、p.61, p.62, p.63, p.201,p.202
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